どうも、トレーナーの中谷大志です。
今回の記事は、個人的に感じたこと、想うことですので、いちトレーナーの意見として何気なく読んでいただければと思います。
先日帯同チームの試合で、スポーツマンとしてのマナーの大切さを改めて感じました。
マナーといえば、競技によって”暗黙のルール”があったり、同じ競技であっても国際試合などでは国によっての多少の違いからトラブルに、、なんてこともよく聞く話です。
野球というスポーツではベンチから選手が大きな声をかけたり指示を出したりすることがあり、高校野球などでイメージできるように特にアマチュア野球でこれはよくある光景です。(もちろんプロ選手も声は出します)
時には「このボール狙ってくるぞ」「この場面でキャッチャーのミス多いから集中しておけよ」など直接的ではなく味方選手への声かけを通して相手にプレッシャーのかかるような言葉も多々あります。
この辺りは、よくいわれる”野次(ヤジ)”と紙一重の部分であり、この言葉は良くない、この言葉は良い、といった線引きは時と場合により曖昧で、熱くなりすぎたがゆえの態度や言葉も理解できれば、それはおかしいだろと感じる言葉もある、マナーでありルールではないのが非常に難しいところでもあります。
スタンドからの”野次”なら我慢すべき言葉でもフィールド上の選手から特定人物への一方的な”野次”と捉えられる発言は選手にとってスポーツの勝負をする上で無駄なストレスになってしまいます。
少年野球レベルでは言葉遣いや、声の掛け方によってベンチ同士やフィールド上でのいわゆる口喧嘩のようなこともよくありますが、年齢を重ねて野球のレベルが上がるに伴って、それはすごく低レベルなことでありチームや選手としての品格もなければ、”意味のある声”ではないと言うことに気づいて成長していくのが正しいのかなと思います。
非常に残念でびっくりしたのが、現在私がトレーナーとして活動している、社会人野球レベルであってもそういった光景が見られたことです。具体的な内容は控えますが、プレー以外での選手に対しての侮辱、監督の采配に対しての侮辱など、すごく残念で寂しい気持ちになるような言葉が飛び交い、こっちベンチは真摯にその限度の超えた挑発に耐えていました。
(実際には耐えきれずこちらの選手やコーチが抗議する場面が2、3度あり異常な空気に、、、)
ほとんどのスポーツには相手がいて、審判がいて、勝敗が決まります。勝敗を争うので闘争心や気持ちがぶつかり合うことはもちろんスポーツの醍醐味で、観ている方も熱くなるし感動をも生まれます。ですが、それは一定の”マナー”や”ルール”があるからであり、そこがなければ純粋にそのスポーツの良さが半減してしまいます。相手への敬意をもった上でぶつかり合う、相手がいるから勝敗もあり、スポーツができることをもう一度、考えるべきだと感じます。
私の帯同チームでは「相手チームのタイム中には声は出さない」「相手選手に対して”こいつ”や”あいつ”といった呼び方はしない」「例え挑発的な態度や言葉かけをされても反応しない(もしくは真摯的な返答をする)」など、細かいことかもしれませんがお互いが気持ちよくプレーした上で熱い戦いができるようにチーム内でもおかしな発言があれば味方同士で注意できる環境を作っています。
ましてや、会社の代表として看板を背負い戦う企業スポーツ(社会人スポーツ)はそのあたりがしっかりしているからこそ生まれる感動があり、大人が泥臭く必死になって取り組む姿が評価され、人々の心をうつのが醍醐味でもあります。
もし、今これを読んでくださっている方が、何かしらのスポーツに携わっている方でそういった判断が出来ない選手がいれば注意深く指導すべきだと思います。監督やコーチがマナーがない選手達に何も言わない、もしくはその方々がそういったマナーがない時には、トレーナーがスポーツ指導者として正すべきだと私は思います。
それで監督コーチに煙たがられたり、職を失うのが嫌ならトレーナーやスポーツ指導に関わるべきではないです。
厳しいようですが、そういった根強く残る間違った文化を「これぐらいは昔からあることだし仕方ない」と許していくうちに、最近のニュースのように体罰や権力者の圧力で選手が潰されていくといった、最悪結果に発展しかねないので、私たちトレーナーと言われる立場の人間にも責任と役割があると感じています。
定期的にでも、指導者をはじめトレーナーは、プレーする選手が存在するからこそ自分たちの仕事が成り立つことを念頭に置き、自らの立場がどうあるべきか、選手に対してどういう存在であるべきかを考えなければいけないと感じます。
チームにどれだけ実績の有る指導者がいても、過去に数々のプロ選手やオリンピック選手を診てきたトレーナーがいても、その試合でプレーするのは選手なのです。
他人事ではなく自戒を込めて、、
では、この辺で。